お墓の歴史について|いつからお墓は建てられるようになった?

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お盆やお彼岸になると多くの方がお墓参りをします。
もちろん、日常的にお墓参りをしている方も少なくはないでしょう。
 
多くの日本人にとってお墓参りは子供の頃からの慣習になっています。
 
では、お墓自体はいつから私たちの生活に溶け込んでいったのでしょうか。
 
今回は、お墓を歴史的観点から見ていきます。
 

お墓のイメージ写真

 

 

お墓の歴史

お墓はいったいいつ建てられるようになったのでしょうか。
 
日本で古いお墓といえば古墳時代を象徴する前方後円墳を思い浮かべる方も多いと思います。
前方後円墳をはじめ古墳と呼ばれるものは、現在私たちが普段お参りをしているお墓とは形や大きさが異なります。
 
現在、私たちが日常的に目にしているお墓と同じ形のものは、江戸時代頃につくられるようになったと言われています。
 

縄文時代・弥生時代

縄文時代や弥生時代から、日本において埋葬は行われていました。
この頃から故人を弔う文化は存在していたのです。
 
当時は現在の合祀墓のように合同で弔われ、掘った穴の中に埋葬する形式だったそうです。
 
佐賀県にある吉野ヶ里遺跡では、甕棺、石棺、土坑墓と呼ばれる住民や兵士など一般人の共同墓地や、北墳丘墓・南墳丘墓と呼ばれる集落の長のお墓とされているものが遺されています。
 

古墳時代

古墳時代になると、権力者が亡くなったあとに古墳がつくられるようになりました。
位の高い人が権力を誇示、承継する為につくらせたといわれています。
 
最大級の古墳は大阪府堺市にある大仙陵古墳(仁徳天皇陵)です。
これは中国の始皇帝陵、エジプトのクフ王ピラミッドとならんで世界3大墳墓とも呼ばれています。
 
この時代、古墳は権力者だけのものでした。
一般の人々の埋葬は、弥生時代からあまり変化ありません。
 
この頃、殯(もがり)という儀式が行われていました。
殯とは遺体を棺に仮で安置し、死者への慰めや別れを惜むなどの期間を設けた葬儀儀礼のことです。
時代や身分によって内容は異なりますが、これが現在のお通夜の原型だといわれています。
 

 

飛鳥時代・奈良時代

大化の改新の一環として薄葬令が出されたことで、古墳時代が終わりを迎えます。
薄葬令とは身分によってお墓の規模を制限したりお墓を建てる日数を制限したり、殯を禁止したりといった内容の法律です。
他にも大掛かりな副葬品や殉死が禁じられました。
 
飛鳥時代になると、日本に仏教が伝わり、飛鳥文化が発展します。
しかし、当時はお墓と仏教は結び付けられていませんでした。
 
一般庶民は風葬と呼ばれる葬送方法で、お墓はつくらず、遺体を荒野で土に還していたそうです。
風葬は後に明治時代になって行政から禁止されましたが、沖縄県や鹿児島県の奄美地方などでは近代まで行われていました。
 

平安時代

平安時代になると人口増加にともない、共同墓地がつくられるようになりました。
この頃からお墓とお寺は結びつくようになります。
 
当時、死は穢れとみなす風潮が強く、忌避されていたことでした。
遺体に触れると穢れてしまうという考えから、放置されることもあったといいます。
そのため、街はずれや山、海や川に遺体を放置し、風葬としていたケースもあったようです。
 
さらに平安京では、市街地であっても貧しい人々のご遺体は放置されていました。
死を穢れとする風潮において、貧しければ僧に弔いを依頼することができないからです。
 
このときにつくられた共同墓地が、後に寺院墓地になったという説もあります。
 

鎌倉時代・室町時代

鎌倉時代に入ると、仏教が一般庶民の間にも浸透していくようになりました。
一般庶民も火葬するようになります。
すべてが火葬というわけではなく、土葬も行われていました。
 
仏教においてお釈迦様が火葬されたことから仏教伝来の鎌倉時代以降に火葬が増えたといわれています。
 
鎌倉時代のお墓として、やぐらがあげられます。
横穴式の納骨窟または供養堂といわれ、現在では土砂崩れなどによりほとんど残っていませんが、当時はとても豪華だったそうです。
ただし、これらは主に高僧や有力な武士に限られていました。
 
また、現代でも建てられる五輪塔はこの時代につくられるようになりました。
 
鎌倉時代には関東地方で板碑の製作が始まり、室町時代にかけて全国時代へと広がりを見せるようになります。
 

 

江戸時代

江戸時代になると、ふたたび土葬が多くなります。
土饅頭と呼ばれる葬送方法が主で、死装束の遺体を棺桶に納めて埋葬し、その上に土を盛り上げていました。
 
卒塔婆や墓石などを設置することが一般的になったのもこの時代で、お墓の形が現在のお墓に近くなっていきます。
 
江戸時代の特徴として、寺請制度があげられます。
後に檀家制度とも呼ばれる、お寺が檀家の葬儀や法事などを独占的に執り行なう制度のことです。
寺請制度を機に寺と地域住民が密接に関係するようになり、一般庶民の間にも墓石を建てる習慣が広まっていきました。
 
貧しい一般庶民は立派なお墓を建てられるだけの財源がないことから、河原の石を積み立てることでお墓の代わりとしていたそうです。
 
土葬が主流となる一方、都市部では墓地が足りなくなり、少しでも解消しようと火葬が行われている地域もありました。
中でも大阪ではほとんどが火葬だったといわれています。
 
この時代には、海上交通網の整備による石材の長距離輸送が可能となります。
そのため、石工の数が全国的に増えていきました。
 

明治時代

寺請制度が出された江戸時代において墓地は寺院が管理していました。
江戸時代が終わると、明治政府に政権がうつり、神仏分離が行われます。
これは後に廃止されることになりますが、神仏分離はお墓に大きな影響をあたえました。
 
明治時代に入ると寺請制度も廃止され、宗派にとらわれない墓地が登場するようになります。
 
また、明治時代ではお墓に関する初めての規制ともいえる「墓地及埋葬取締規則」がつくられました。
墓地や埋葬に関して、治安維持・公衆衛生という面から規則化したものです。
 
今まではお墓といえばひとりひとりが入る個人のお墓が一般的でしたが、この年以降、家族が入る一家ごとのお墓が普遍化していきます。
長男がお墓を継ぐものだと定まったのもこの頃です。
 
家族墓の場合、ひとつのお墓をひとつの家族で何世代にもわたって共有することができます。
そのため、これまで庶民によって高嶺の花だったお墓が一気に全国で広がりを見せました。
 
ただしこの規則は、昭和時代には廃止されます。
 
後に廃止されるものとしては、火葬禁止令もそのひとつです。
神道派が火葬は仏教の文化だと主張したことで火葬禁止令が出されますが、土葬用の墓地の不足から2年後には廃止されます。
ふたたび火葬が主流となり、現在では公衆衛生的観点からもほぼ100%に近い割合で火葬が行われています。
 

昭和時代

昭和時代に入ると、明治時代に定められた「墓地及埋葬取締規則」が廃止され、代わりに「墓地、埋葬等に関する法律」「墓地、埋葬等に関する法律施行規則」が制定されます。
 
葬儀社が登場したり告別式や葬儀式が行われたりと、供養において現在と近いものになったのがこのころです。
 

 

平成時代~現在

現在では少子高齢化社会やライフスタイルの変化にともない、さまざまなお墓が登場するようになりました。
樹木葬や散骨、永代供養などがあげられます。
 
今までの先祖代々の墓だけではなく納骨堂も選択肢として選ばれるなど、多様性が認められるようになりました。
それぞれが自分たちの生活に合わせた供養を行えるようになったのです。
 
また、お墓参り代行などお墓に関するサービスも数多く登場しています。
 

まとめ

お墓の歴史についてご紹介しましたが、いかがだったでしょうか。
 
古く、縄文時代から死者を弔う文化は存在していました。
それから長い年月、それぞれの時代に合った供養のかたちに変化していきます。
 
今ではお墓の形態が多様化し、選択肢が大きく広がりました。
墓石タイプのお墓だけを見ても墓地や霊園に行けば、形や色などデザインされたさまざまなお墓を見ることができます。
 
自分や家族に合ったお墓や供養方法を選べる時代になったといえるでしょう。
 
ただし時代によって供養形態やお墓のかたちに変化があったとしても、故人を悼む気持ち、ご先祖様を大切に思う気持ちに大きな違いはありません。
 

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